コラム

【作曲家】独学クラシックで伝説を作った音楽家・ガーシュウィン

作曲家

ガーシュウィンの生涯

本名:ジョージ・ガーシュウィン

ガーシュウィンは1898年、アメリカの貧しい街で生まれました。ガーシュウィンの父は貧しい中でも音楽を学ばせようと兄のアイラにピアノを買い与えたものの、兄は文章に興味を示したためガーシュウィンに音楽が託されます。13歳でピアノを始めたガーシュウィンは、クラシックを習わずにポピュラー音楽の作曲家となり、21歳で作曲した「スワニー」がヒットし人気の作曲家となりました。
比較的現代に近い作曲家で、クラシック音楽とポピュラー音楽の両ジャンルで活躍し「完璧な音楽家」としてアメリカ音楽を確立しましたが、わずか38歳で亡くなりました。

ガーシュウィンについて

悪ガキから音楽一辺倒な生き急ぎ屋へ

ガーシュウィンは、貧しいユダヤ人街のストリートで悪ガキとして生きていました。しかし、13歳でピアノを与えられると途端に音楽一辺倒になり、38年という短い人生のうち21年間を作曲家として生きます。その期間で書いた曲は600曲に及び、本人が語った言葉として「やりたいことが多すぎる」「失敗している暇はない」「音楽が生きる証」といったものが残されています。
短命であることが分かっていたかのように音楽に没頭し、太く短い人生を生きました。

ガーシュウィンの才能を認めた作曲家・ラヴェル

ガーシュウィンは13歳で音楽を始めましたが、そのルーツはストリートで聴いていたジャズやポップスだったと言われています。西洋音楽のクラシックがアメリカにそれほど浸透していなかったこともあり、ガーシュウィンはクラシックを独学でしか学んでいませんでした。そこでアメリカへ演奏旅行に来ていたラヴェルに弟子入りを志願したところ、「君は既に一流のガーシュウィンなのに、なぜ二流のラヴェルになりたいのですか?君に教師は必要ありません」という手紙が送られて来ます。フランスの偉大な作曲家にもガーシュウィンの才能は認められていたのです。

ガーシュウィンの音楽はアメリカとアフリカの融合

ガーシュウィンは、幼い頃からジャズで育っていたため独特の音楽観を持っていました。作詞家である兄と共に数々の名曲を生み出していたガーシュウィンですが、「ラプソディ・イン・ブルー」にてクラシックとジャズの融合である「シンフォニック・ジャズ」を確立するとその名は世界に広がりました。

代表的な作品

ラプソディ・イン・ブルー(楽曲情報:ピアノ協奏曲「ラプソディ・イン・ブルー」、変ロ長調、1924年)

「ラプソディ・イン・ブルー」は、ガーシュウィンのクラシック音楽の中で特に有名な楽曲です。「ラプソディ」は自由奔放で民族的な楽曲、「ブルー」はブルース調の、という意味であり、名実ともにアメリカ民族音楽とジャズの融合曲になっています。
ただ作曲当時、ガーシュウィンはまだ若く技術に乏しい状態だったと思われ、「この曲は青い」という言葉がタイトルの由来だとも言われています。
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